20030919
番外編

なんで山なんか行くんだー?


昔、山渓に高田直樹氏の【なんで山登るねん】という連載がありました。
それをまねてこんな表題を付けてみました。
高田氏のように高名でもなければ実績も無く、昔少々かじっていただけの Sunday climber が高田氏のまねなぞをするのはおこがましい事は充分承知の上ですが・・・


もの心がついた頃、祖母と姉と三人で神戸の町に住んでいました。【お婆ちゃん子】という点では高田氏と共通しています。
その頃の神戸はそこらじゅう戦争の傷跡が残っており、家の近くにも【キャンプ】と呼ばれる広大な空き地がありました。
もとは問屋街だったそうですが空襲で焼かれた跡だそうです。はずれに進駐軍のカマボコ型宿舎があり、ここから【キャンプ】と呼ばれるようになったのかと思います。

碁盤の目のように道路で仕切られ、区画ごと板塀で囲われていましたが、子供達の格好の遊び場になっていました。
中でも土盛りして山になっている所が特に好まれ、地面と板塀の隙間から潜り込み一日中遊んでいたものです。
時には粘土質の土を掘り家まで持ち帰り、近所の子供達に売りつけた事もありました。小学校にあがる前の事ですから、その頃の方が商才があったようです。

当時は小規模な建築工事が多く、よく道端に砂が盛ってありました。
大抵の子供はこういうものを見つけると上へ登りたがるものです。私も例に漏れず見つけると必ず登っていました。高い所に登りたがるのは人間の本能かもしれません。
「馬鹿と煙は高い所に登りたがる。」昔よく言われた文句です。


また近所に湊川神社がありその奥には【大倉山】という丘陵地、その横の宇治川というドブ川沿いになおも進むと六甲の山域に入って行きます。
日曜のたび、姉やその友人に連れられよく行ったものです。今でいうHikingですが当時はそんな言葉になじみもなく、また子供達だけの行動なので冒険的要素が強くいつもワクワクしていたものです。
沢伝いに行けば、時としてV級程度の岩を攀じる事もあります。
今にして思うと「よくもまああんな危ない事を!」と思う事しきりです。

当時、世の中一般の親は生活の為働く事が最優先で子供は放ったらかしがあたりまえ。子供は子供同士で群れをなし、力関係から順位付けられ、それぞれ役割分担が決められていました。
たとえ小学生でも群のボスともなると、大企業のCEOのようにリーダーシップが求められ、全員の安全に全責任を負っていました。
トラブルにみまわれれば全員忌憚のない意見を交わし、たとえ年下の者の意見でも黙殺する事なく皆が謙虚に耳を傾けていました。まるで民主主義の原点のようです。

この頃の体験が後々の山好きにつながっていったのかもしれません。
紅葉に染まった木漏れ日に煌めく沢の水、冬枯れの中のひだまりの温もり、新緑の芽吹き、うだるような盛夏 沢を堰き止めたプールでの水遊び。あの頃から半世紀近く経っているんですねえ。

小学校に上がった頃、巷ではダークダックスの雪山賛歌がはやっていました。そんな世界がある事に気付いたのもこの時期です。
しかし生活苦に喘いでいる周りの、秩序,常識がものさしになっている私の目には、非常識な若者の非常識な行為としか写りませんでした。

この頃、姉の読んでいた本【失われた地平線】を偶然読んでしまい、チベットやカシミール地方の山岳地帯に妙に興味が沸き始めました。
垂壁を攀じ登りテラスに顔を出した瞬間、目の前に広がる広大なシャングリラの宮殿・・・夢で観たものですが今でもこの感動は鮮明に覚えています。


小学校4年の時、名古屋に引越しました。
父と同居かと思っていたら牛小屋のような借家に押込まれ父達は別の所に住んでいました。
今思うと神戸の家が差押えられ追い出されたようです。

名古屋には近くに山も川も海もありませんでしたが、驚いた事に街中に田圃や畑があるのです。
春にはレンゲ、菜の花。夏にはカボチャ、ナスの花。秋には黄金の稲穂に曼珠沙華。
神戸のようにコンクリートだらけの街と違い、都市とは名ばかりの田園風景の広がる町は、貧しさの為劣等感にまみれていた私の心を紛らわせてくれました。
小学校の名前が【米野】、中学校が【黄金】。いかにも田舎そのものですね。

毎週の冒険(神戸でのHiking)ができなくなると模型造りに励むようになりました。
もともと絵を描くのが好きでしたが、平面より立体の方がより欲求が満たされました。
雑誌【ラジコン技術】のおかげで、図面から立体を読み取る事を覚え、技術的思考もこの本で身に付いたようです。
地図(平面図)から地形(立体)を読み取る術を身につけたのもこのおかげかと思っています。


中学に入いると、国語の教科書に【ハイジ】の一部が引用されていました。細かな情景描写、文章からの想像が映像となり視覚的に脳裏に焼きつく。実際には観た事のないものですがその時作られた映像は今も鮮明に覚えています。
ヨーロッパアルプスへの憧憬を抱くようになったのはこの頃です。(結婚前までアルプス貯金と名付けてお金を積立てていた。)


いつ頃だったか覚えていませんが、同じく国語の教科書に【いわおの顔】がありました。
ある村に人の顔に似た岩山があり、その村にはその顔にそっくりな偉人が現れるという言伝えがあった。
その偉人の出現を待ち焦がれていた主人公は、何度も期待を裏切られながらも村人の信頼を得るようになり、ある旅人に「あなたこそ【いわおの顔】の人だ。」と言われ、村人もそうである事に気付いた。という話です。
政治的、経済的に成功する事だけが立派な事ではないと訴えているのですが、岩山と山あいの村という舞台設定が絶妙で、中学を卒業したら働こうと真剣に思った事もありました。

私立高校を受ける余裕なんて無く、県立を落ちたら働こうと思っていましたが、中学の先生も落ちるようなところを受けさせる訳がありません。
家から近いのと、すぐ傍に往き付けの模型屋があった事、愛知県で授業料が最も安かった事(授業料\650. PTA会費\650. 合わせて\1,300./月)からN高を受けましたが、確実に受かってしまいました。


高校の周囲は住んでいる所よりもっと田園情緒が豊かな所でのんびりと季節を満喫できました。
部活にしても体育会系特有の規律やしごきなぞ無く、各自の主体性を重視しており、この3年間で個人としての自立心が培われたと思っています。
軟弱体操部でしたが平衡感覚が養われたのはこのおかげかも。

中学、高校を通してよく父の仕事を手伝わされました。
早熟だったせいか中学入学時で身長161cm(その後あまり伸びていませんが)。並の大人と変わらないので他人を雇うより安く済んだのでしょう。多少お小遣はくれましたが、すべて模型や写真に消えて行きました。(中学の頃から写真も始め暗室作業もやるようになっていました。)
このお手伝い、建築工事現場で足場を登ったり骨組みだけの屋根に上ったり、馬鹿と煙にはピッタリの仕事で、楽しみながらの小遣い稼ぎとばかり喜んでついていきました。
高所でのキンキンが縮みあがる快感を味わってしまったのはこのお手伝いのせいです。


高校3年間遊んでばかりいたので当然の事ながら大学受験は失敗。やはり私学は問題外だったのでいよいよ就職かなと思っていたら、不憫と思ったのか祖母が2年間の専門学校に行かせてくれました。

このころ放浪癖が付き、普通列車であてもない旅をしたり友人の下宿に転がり込んだり。家を空けることがだんだん多くなりました。
アルチュール・ランボーを真似て詩を書いたり、スケッチをしたり、わざと自分を孤独に追い遣っていた頃です。
車窓に映る景色をぼんやりと眺めながら時が流れていく。何も考えていないつもりでも感性が研ぎ澄まされていく・・・。
日常生活とかけ離れた行動・・・神戸時代の毎週の冒険を求めていたのかも知れません。

油絵を始めたのもこの頃です。友人の下宿で知合った連中が絵を描いており、「これ位なら俺の方が上手いぞ。」と思ったのがきっかけです。スケッチブックを抱えて電車に乗るようになったのは絵を始めてからだと思います。

絵、写真、詩など創作活動は自分が感動したものを再現したい、人に伝えたいという気持ちから生まれるものだと思います。(本人の意識にあるのは、理由も無くただ無性に何かをしないと居られない、という気持ちだけですが。)
私の場合、神戸時代の体験や感動が根底にあり、それを思い起こさせるものに鋭敏に反応するように思います。


就職してから充たされない気持ちのやり場に困っていた時、絵画クラブなるものを知りました。
就労青少年のために青年の家という施設があり、そこで活動しているとの事でした。
喜び勇んで入会すると、中身は暇を持て余した若い男女の社交の場。今でいう出会い系サイトの物理版。

人それぞれ思いも考えも違うのでどうこう言えませんが失望は隠せません。しかし同じ美術室で別の日に彫塑クラブが活動しているとの事。
早速覗いてみると、20歳代後半かと見られる男性が数名。皆黙々と制作に打ち込んでいる。ひとりはモデルをつかい完成間近の胸像に向かっている。
大人ばかりの集団で、はたして自分にここまでのものができるだろうか?と不安になる。
最も年長らしい人が世話をやいてくれ、「(石膏像の)模刻でもやったら?」と道具等のある場所を教えてくれる。「それでは!」と早速制作にとりかかる。

それ以来この会の先輩達とのお付き合いは30年を越えています。
後で聞いた話ですが、この時は皆「また変なやつが来たな。どうせ直ぐ辞めていくだろう。」と思っていたそうです。

何週目か作品がだんだん形になってきた時、初めてBさんが声をかけてくれました。モデルをつかっていた人です。この時やっと僕を認めてくれたようです。
ものを立体視するというのはやはり天性のもののようです。皆平面的にしか見ていないから立体を作れないのだと。

彫塑との出会いは運命だったように思います。この時出会っていなくても遅かれ早かれ出会いそしてのめり込んでいった事と思います。
「形が私を喜ばせる。」マイヨールの言葉だったかと思いますがまさにそのとおりです。そしてその後すぐに気付く事になるのですが、自然界に存在する芸術的彫刻−そう山や岩峰です−これらの形が私を喜ばせるのです。
そこへ行きたい。そこを登りたい。その上に立ちたい。今まで興味として現れていたものは、私の本能的欲求を暗示するものだったのです。
山の姿を見た時にキュンと胸を締付けられるような感覚は何故なのか、今ははっきり自覚しています。

彫塑クラブで最初に世話をやいてくれた人がSさんです。これ以降ずっと私の兄貴のような存在になり、世話になりっぱなしです。そして私を山の世界へ引きずり込んだのもSさんです。

Sさん、Bさん、Nさん、そして私。粘土を捏ねる事が無くなった今でも、家族ぐるみでお付き合いさせて頂いてます。それぞれの子供達がもうすぐ4人が出会った頃の年齢になろうとしています。
Sさんに山の手ほどきを受けてからは四六時中山に入りびたるようになり、そして社会人山岳会に入会。どっぷり山につかりこんでしまいました。

その後、会のマスコットガールであったかみさんと結婚。引退。約20年のブランク。そして現在の御在所通い再開に至っています。

結論として、山に行くのは本能です。山の姿そのものが私を喜ばせるのです。

2003年09月19日16時50分00秒



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