あれは何処だったのか…。白い花崗岩を穿ち5m程の細い滝がかかっていた。
右岸からへつるように取り付き直上、上部も細い溝を水が走りそれがそのまま滝となっていた。
その溝を勢いをつけ左岸へと飛び移る。
前後の記憶は無く、この断片的な記憶だけが残っている。
かれこれ30年も前の事だと思うが、そのころの鈴鹿は登山道も今ほど整備されている訳でもなくルートを失うのは毎度の事だった。
北アルプスのように、顕著な登山道が続き一般ルートを行く限り絶対に道に迷う事はない。というのと比べ、鈴鹿の山道は踏み跡も薄くまた地図上の道と位置が全く違っている事も多かった。
山渓刊のアルパインガイドの地図などその典型だった。
早い話、山道を行く限り地図はあてにならなかった。現物の道はところどころ無くなっていたり、分岐には案内もなく、山仕事でできた枝道も多く山道を歩くにもルートファインディングが必要な程だった。
おかげでいつも道迷いをしていた。迷っても適当にめぼしをつけて突き進むとすぐ尾根に出て登山道に戻る事ができた。
このため登山道に固執する事も無くなってしまった。最近はやりのバリエーションルートとは違いわざわざ道を外すのではなく、道があれば道を行き(その方が楽ちん)道を失っても別に気にならなくなっていた。
道という線に頼るのではなく全体の地形の中で自分が今どこにいるのか、どこに向かっているのかが解っていれば、到達点までのアプローチの方法はいくらでもある。その中で最もらくそうな、いや楽しそうなルートを選べばよい。
そのルート選びを地図で決める事もできますが、たとえ2万5千分図でも概略の地形が解るだけで実際の地形が解る訳ではありません。
顕著なリッジやガリーでも地図には表されていなかったりします。
あそこへ行く為にはそこをこう行ってあそこはこうやって…と目でルート工作して決めるのが最善です。
岩登りのルートファインディングと同じ要領って事ですね。
結局、3次元空間に存在する無限の選択肢から好みのルートを自分の意思で選択する。これが山へ行く楽しみなんじゃないかな?なんて思います。人から与えられたもののみを踏襲するのではなく自分の意思で選択することで一種の自己表現をする。 うーん上手く伝えられないな。
そんな訳で地図も参考程度にしか見ていません。といっても根っからの臆病者なので、初めて行く所は事前に地形概念を頭に叩き込んで行きます。また行動途中で「おかしい!」と思ったらなぜそうなったのか歩きながら真剣に考えます。納得できなければ地図を出し行動の軌跡を追い状況を把握した時点で善後策を決めます。
地図もそんな程度でしか見ていないので、コンパスの必要性も感じた事がありません。鈴鹿の山は四季を通じ北西の風にさらされており、山頂部では木の形で大体の方位がわかります。もちろん晴れていれば太陽の位置でわかります。それよりコンパスを見なければ方位もわからない所に迷い込んでいたらそれは既に遭難していると言うことでしょう。幸い今までそんな状態になったことはありません。
先日本屋で【地図で歩く鈴鹿の山 ハイキング100選】という本を見かけ面白そうなので買ってしまいました。(私、本はよく考えもしないですぐ買ってしまうんです。左程高いものでもないし自分の都合で読む時間をきめられるので。反対にかみさんは全く買いません。欲しい本は図書館に買わせています。借りたら借りっぱなしでよく返却督促をされています。)
帰宅後読んでみてなんかしっくりこない。というより何故かフラストレーションがたまってくる。
地図を見る事はもともと好きで見ているだけで想像が膨らみいつまでも飽きずに見ているのですが、この本はいらいらしてくる。
理由はすぐ解りました。地図を見るという事は全体の地形を見ているのです。そして3次元の空間を想像しているのです。だから楽しい。
なのにこの本の地図は起点から到達点までの点と線、途中の目印しか無いのです。
そう、まるでカンニングペーパーそのものです。
こんなものを頼りに山へ行って楽しいのだろうか? 人それぞれなので批判する気はありませんが、私の山の楽しみ方は前述の通りです。その区域の3次元空間の中に入り込み自分の想像した空間と比較したり、共有していたいのです。
でもこの本の地図(というよりルート図に近い)は全体の地形の中のどの部分にに当るのかが全く解らないのです。それが解れば「ここからこういけばあそこにつながっている。」とか「あそこからこう辿ればここに出るのか。」とかが解るのですが。まるで「周りの事は気にするな! 見るな! 行くな!」とでも言ってるみたいな気がします。
尤も著者自身は純粋に、急増した中高年ハイカーの安全の為、或いは鈴鹿の楽しさをもっと多くの人に知ってもらいたいという気持ちなのでしょうが。
実際の地図上に目印等を書き込んだものであれば、私のようなひねくれ者でも地図遊びが楽しめるのです。
昔、山渓の付録に彩色地図に目印等のコメントが書き込まれたものがあり、もの凄く重宝した事を思い出します。
それにしてもあの滝はどこだったんだろう。
鈴鹿の夏は蒸し暑く沢の水も生温く大腸菌もウヨウヨ。北アルプスの鮮烈さと比べれば月とすっぽん。
そしていたるところに人の生活のにおいがする。
こんな俗臭のするところなのに冒険的要素が多く、また迷った時に出くわす人の生活臭の名残にほっとしたり。
30年の間に地形が変わってしまったところ、工事により無くなってしまったところ等あって当然ですが、あれがどこだったのか解らないのは自分の記憶も30年の間に風化してしまったという事なのか。
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