「ふうっ。」
今やっと一息ついたところ。
寝起きの読書タイムの後、台所のゴミの始末、洗い物、夕べ済ませておいた洗濯物を干し、残りものでチャーハンを作り朝食。古新聞を片付け、髭を剃りながら今日の朝刊に目を通す。
「全く、うちのかみさんときたら。何もかも放ったらかしで出かけるんだから。」
と言いながらも、私自身人の事は言えない。昨日帰宅時から臭っていた台所の納豆臭さも、面倒なのでそのままにしていたのだ。朝食を作る為しぶしぶ片付けたに過ぎない。そして夕べの夕飯は、新聞のチラシに入っていたクーポンで買ったMacのハンバーガー。ポテトと合せて¥270.也。デフレ万歳。
夕べの内に洗濯をしておいたのは正解だったな。全自動洗濯機っていうのはイマイチ使い方がよく解らん。
夕べ遅くにかみさんから電話。
「おとう? 今てんちゃんとラブラブ中。 明日A駅まで迎えに来てね。」
いい歳して何がラブラブ中だ。
実は爺さんを案内してS司のところへ行ったのだ。父の日のプレゼントのつもりかな? でも旅費は全て爺さんに出させている。 結局爺さんを出汁にしているだけじゃねえか。 それも親孝行? まあ、親子水入らずで新幹線の旅でも楽しんでちょうだい。
父の日、父の日と新聞テレビが騒がしい。
「いざと言う時に料理が作れるお父さんは尊敬される。」
「指相撲で子供とのコミュニケーションを。」
それもひとつの考え方だろうが、なにかおかしい。
指相撲のニュースではわざと負けてやるシーンが映し出されていた。
「子供の為に。」と考えるのは世の親の常である。甘やかすのも良いがそれによる弊害も解っているのだろうか。子供には自分の実力も認識させるべきである。甘やかし過ぎる事で子供自身の生きる力を萎えさせる。自分の非力さを認識する事で子供は対処の仕方を子供なりに考える。そして力を養おうとする。
なぜか世の中の風潮が、子供に対するご機嫌取りに傾いているような気がする。
たとえ幼い子供でも父親にそんな事を期待しているとは思えない。おべんちゃらなぞ使わなくても子供はちゃんと親を見ている。 理不尽な接し方も子供にとっては大切な事である。子供心に「世の中にはこんな不条理な事も有るんだ。」と認識する。 弱さを見せるのも大事な事である。そこから優しさや思いやりを学んでいく。
そして子供の人生の節目節目に自分の経験してきた事を話してやれば良い。たとえそれが最善の選択ではなかったにしても、子供にとっては大きな羅針盤となる。
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