鈴鹿北部の山


20060301

鈴鹿北部の山とはとんとご無沙汰である。御在所通いを再開してからも全く行っていない。いや、引退前も殆ど行かなくなっていた。岩登りは媚薬のようなものである。これを味わってしまうと本番以外は藤内に引き篭りになってしまう。
想い起こすと鈴鹿北部に足繁く通っていたのは山を始めた頃、Sさんに連れられ歩き回っていた頃だけだったようだ。
どんな場所にも四季折々そこならではの風情がある。そんな情緒深さも忘れのめりこんでしまうのは、岩登りが持つ魔性の魅力ゆえか。
そして今、「藤内へは足を踏み入れない。」と自制しているにも拘わらず、そのすぐ傍を未練たらしく散歩しているのである。全く人間とは不可解なものである。

Sさんに連れられ歩いていた頃は、伊吹、鈴鹿というと必ず鉄道利用だった。そして駅から登山口までは殆ど歩きだった。バスがあっても使わせてくれないのである。伊吹山しかり霊仙しかり。体力の無い私はアプローチだけでバテてしまい、いつも苦渋を味わっていた。
その頃からである。仕事を定時で終えた後トレーニングに励み、その後また残業。日付が変わってから帰宅。こんな生活を結構永く続けていた。
いつしかバテずにSさんに付いて行ける様になっていた。
そしていつだったか…。その時も雪の中、醒ヶ井の駅から歩いていた。漆滝を過ぎた辺りからSさんのペースが遅い。私は新雪に嬉々としながら歩を進めていた。このとき初めて立場が逆転したのである。(しかしその後も私の方が先にバテる事が多かった。)
Sさんは常に私より強くて輝いて見えた。決してバテる事はないと思っていた。その人のバテた姿を見た時の驚きと戸惑いは今でも覚えている。なにか悪い事をしてしまったような、失礼な事をしでかしてしまったような。兄貴か父親のような存在だったので、なおさら戸惑いが大きかったのだろう。
しかし稜線に出てからはやはりSさんの独壇場。吹雪で視界の悪いだだっ広い雪原を黙々と歩き、山頂の石の陰で風雪を凌いで小休止。よくこんな状況で進路が解るものだ。
降りは柏原へ。そこからは名神高速バスで名古屋へ。バスに乗ったとたんほっとする。もう歩かなくて良い。
名古屋に着くとSさんの奢りで豪勢な食事。あのときは確か名鉄ホテルの鳳凰とかいう中華レストランだった。細かな事をよく覚えているものである。
あのころの山歩きは家を出てから帰り着くまでずっと歩きづめだった。 それが今では車利用であまり歩かなくなってしまった。公共交通機関と車では運動量が全く異なる。健康管理の為というなら車は使わない方が良い。解っていてもそれが出来ない。軟弱になったものである。懐具合からしても車の方が安上がりである。しかしCO2を撒き散らし破壊してしまった環境を戻すにはもっと大きなコストがかかる。こんなところにもエントロピーの法則が成り立っていたのか。
子々孫々の為には例え今は車の方が廉く見えても公共交通機関利用の方が結果的には安上がりなのである。解っていながらそれが出来ない愚かな私。
来週も鈴鹿北部の山なんて目もくれず、また御在所通いとなるのだろう。やはり一穴主義か。


2006年03月01日


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