スキー


20050307

朝の4時頃、弁当箱下げて、家を出てゆくオヤジの姿。
服はボロボロ、地下足袋履いて、帽子は底抜け、頭は100ワット。


山は白銀(しろがね)、朝日を浴びて、滑るスキーの風切る速さ。
飛ぶは小雪か舞い立つ霧か。おーおーおーこの身も駈けるよ駈ける。


よくもまあこんな歌覚えていたもんだ。
小学校で上級生から教えられたスキーの歌の替え歌と本当の歌詞です。
という事は小学生の時にスキーというものの存在を知っていたって事です。
いや、知ってて当然。この頃【トニー・ザイラー】がアルペン3冠を果していましたね。
そしてその後、映画【白銀は招くよ】に出演してましたね。貧困家庭の私は見る事は出来ませんでしたが映画館の看板やスチール写真を恨めしく見ていたものです。
当時の少年は、その後自分がこんなにもいろんな遊びを楽しめるようになるなんて、想像すら出来ませんでした。
あんな事できるのはお金持ちの外国人だから。貧乏な日本人の中でもとびぬけて貧乏な自分たちには一生できる事ではないと。
そして憧れと羨望と入り混じった気持ちで華麗な世界を眩しそうに見ていたのでした。


就職し自分の稼ぎで生活するようになり、山の世界に足を踏み入れてもなかなかスキーの世界へは入る事が出来ませんでした。あまりにも華麗なスポーツに見えてしまって…。
しかし雪山で機動力を発揮するのはスキーしかありません。華麗なスキーとはかけ離れた地味な山スキーが私のデビューです。ところが登りはごまかせてもいきなり滑れるものではありません。
手痛いしっぺ返しをくらい、練習のためゲレンデ通いするようになりました。おかげであんなに高かった敷居も一旦越してしまうとどうって事ありません。いやそれより仲間達と滑って転んでが楽しく、「ああ、これがスキーの楽しさなんだ。」と悟る事に。
以後、山スキーは綺麗に忘れ、ゲレンデ専門になってしまいました。乗鞍もよく行きましたがゲレンデスキーの延長です。シールで登って滑って降るなんてごくたまにしかやってません。
冬合宿前は当然スキーは禁止。でも禁が解けると毎週ゲレンデ通い。春合宿直前までスキー三昧。
その後も御在所通いの合間を縫って乗鞍、白山とスキー山行。


結婚して山へ行かなくなると幼い子供達を引き連れて毎週スキー通い。当時会の小屋があったので金曜夜から泊まり込み日曜のリフト終了後、渋滞回避の為小屋で夕食を摂ってから帰る。という生活を送っていました。もうこの頃はスキーが華やかで敷居が高いなんて印象は皆無。もう生活の一部になっていました。

子供がお受験を迎えるようになると、かみさんはそのサポートの為スキーは休止。私もつられて休止。暇を持て余し御在所通い再開。
お受験が終わってもかみさんはその気がなくなってしまい、私は相変らず御在所通い。
T哉も行くとしても友達同士。おまけに友人達がボードなのでレンタルでボードをやっているようだ。あんなにスキーに投資したのに裏切られた気分だ。
S司は軟弱スキー部でお山の大将でいい気になっているようだ。ボードに手を染めていないのは善しとしよう。ボードなんかに手を出したら仕送りを止めてやる。


夕べT哉を大府まで送って行った。友人宅に集合し今日の早朝そのまた友人にセントレアまで送って貰うとの事。昼には札幌市内に着くがそれからじゃあ何処で滑るつもりなんだろ?藻岩だったりして…。
なんでも高校の時の友人宅に泊まるそうだ。アパートで独り住まいだとか。春休みなのに帰省もせずT哉達にお付き合いとはご苦労な事だ。それに今年卒業じゃないのかな?
「お土産より飯を奢ってやれ。」と言っておいた。
「小遣いやろうか?」と言うと「いい。9万円程ある。」えっ、俺より金持ちじゃねーか。
戦後の影が色濃く残る頃に幼少期を過した我々とは違い、豊かな時代に育った子供達には何かに対する敷居の高さや自分を卑下するなんて感覚はないだろう。
幸せな事には違いないが、ありがたく思う謙虚さがなんとはなしに薄れているような気がする。
こんな事考える事自体、我々団塊の世代の常識が病んでいるのかもしれない。

心の片隅にまだ、スキーは華麗なスポーツ。我々賤しい庶民とは別世界のもの。と言う憧れがまだ残っているのかもしれない。

【トニー・ザイラー】カッコ良かったなあ…。


2005年03月07日


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